飛翔(過去の機関紙より抜粋)

*作文は原文のまま載せています

★第1号 (飛翔創刊発行にあたって)

 この4月から中国帰国者の方々と一緒に生活をしております。毎日の生活を共にして私なりに色々考えさせられております。
私も次弟を上海近くで戦死させ、また、すぐ下の弟もバシー海峡で6,300人の人とともに玉津丸で海没しています。早くに母を失い一生懸命に育ててきた弟二人を戦死させた私には、帰国なさった中国の方々のお気持ちが痛いほどわかります。
 1957年、中国に招かれて一般夫人の代表として中国のあちこちを50日近く見せていただいてまいりました。上海近くで亡くなった弟のことも忘れられず、場所もわからないまま走る汽車より花を投げ供えたことを思い出しています。

 戦後色々考えることがあって南米に移住した青年の世話をしてまいりました。男子は移住ができるのですが、女子は結婚しないと移住ができないのです。移住した青年は非常に結婚問題に悩みました。移住希望の女子を訓練して、相手を調査し結婚させる仕事を国際協力事業団の仕事の一環として35年続けてまいりました。結婚はうまくいって当たり前。間違えば二人とも不幸です。おかげさまで380人送り出しましたが殆ど離婚がございません。それが私の大きな喜びです。
今はその子供が1,000人以上になったので、5年前から13歳~15歳の女の子だけ、毎年20名を1ヶ月間呼んで勉強させています。6回生がまた来年1月10日にまいります。私も約20年、保護司として少年のみを面倒見てまいりました。
 
 おそらく満州も同じだと思います、そうした人を面倒みたかったのです。しかし時代は変わりました。今は南米から日本に働きに来ています。みんな日本の大切な人です。過去にとらわれて前進できない人は愚かしいと思います。
今の世の中です。頑張って自分の道を拓いてほしいと思っています。自分で努力すれば道は開けます。自分に誠実に生きてほしいと思います。自立センターには実にいい先生がそろっておられます。頑張ってください。
1991.9.18 所長(当時) 小南みよ子



箱根デイキャンプ        9期生 K.B

 7月17日、いい天気の日に小旅行に行きました。場所は箱根でした。朝9時頃、私たちは観光バスに乗り目的地へ出発しました。朝は晴れているから富士山が見えてとてもきれいでした。まず国府津行って、みんなちょっと休んで写真を撮ってから出発しました。バスで遊んだりカラオケをしました。おもしろいから時間がすぐ過ぎました。箱根に着いたそのときは、天気がちょっと曇りました。霧があるからみんな心配でしたけれども、休むところに行ってお昼ご飯がはじまりまっていろいろな物がおいしかったのでいっぱい食べました。
そして、湖の辺りで遊んだり話したり、写真を撮ったりして楽しかったです。 最後に船に乗って風景を見たり、写真を撮ったりしました。 

 山の緑が面に映えて本当に美しくて霧があるのも、風景がとてもきれいなので、神がすんでいるところのようでした。そんな時は何も考えないで、自然の風景を見るだけでとても楽しく、気持ちもよかったです。いまでもそんな気持ちとそんな風景はずっと忘れないと思います。
船が岸へ向かって30分くらいで岸に着きました。記念撮影を撮ったり中を見たり、お土産を買ったりしました。時間がとても速く過ぎました。 1日中短かったけど、あっという間に旅行が終わりました。とても楽しかったです。
 今度は両親と一緒に来たいと思いました。



美しい国立公園・箱根        9期生 S.Y

 自立研修センターは6月末頃、7月15日箱根公園に遠足に行く予定を立てました。研修生たちは嬉しくその日を待っています。
 7月15日、いい天気で気持ちはとてもよかったです。11時頃、箱根公園に到着しました。箱根は風景優美、山が全部緑色になって、富士山が特別高くて衛兵のように立っています。芦ノ湖は山々にまわり清澄の湖が鏡のように平穏で、すがすがしい湖水は太陽の光できらきらになって、広大な湖の上に船が白点に見えて、だんだん大きくなって、船の形が次第にはっきり見えてきました。とても立派です。以上全部見て、たとえば一幅の美しい絵だと思いました。興味が深くなりました。

 皆さん歩いて野外の食事の場所に行って、6人1組になって焼き肉や野菜やおにぎりなどをたくさん食べました。食べたり飲んだり笑ったり、そこはとても賑やかでした。
食事が終わったら皆さんは別々に写真を撮りました。私たちは先生と指導員と友達と一緒にここで遊ぶチャンスがたぶんこの一回だけだと思いますから、多く撮って記念にしてアルバムの中に入れて宝物としてしまっておきたいと思いました。

 2時頃、皆さんと一緒に船に乗りました。その船は外形がきれいで中は大きくて人々は自由に活動して、まわりの場所を見ながら湖の新鮮な空気を吸って、気持ちが軽くなりました。

 私は日本人だけど日本に来る前は日本人としての感覚はありませんでした。しかし自立センターに見学や遠足などの機会をいただいて、社会のいろいろなことを見学したり、勉強したり感動がだんだん多くなりました。日本は経済大国で工業技術が素晴らしく、清潔で治安もいいし、交通が便利な国だと思います。この国で生活して、一生懸命頑張って生活水準を高くして幸せになりたいです。


*7月17日の箱根デイキャンプは、藤沢市の林様、国際ソロプチミスト茅ヶ崎、(財)神奈川県厚生事業団の寄付により実現いたしました。



★第2号  1992.1.14発行 (10期生10名 1992.1月修了)

成田に兄を迎えに行く        10期生 K.Y

 11月15日、朝6時早く起きる。顔を洗ってご飯を食べて私一人で相模原駅に行く。私たちの自立指導員近藤さんに会った。9時半、私たちは一緒に横浜線の電車に乗り、横浜駅で降りて総武線に乗り換える。12時ごろ成田空港に着いた。
 
 中国から飛行機が遅れたので私たちは3時間半くらい待った。私はとても心配だった。兄は日本に来られないのではと心配した。ついに4時5分、飛行機が着いた。兄と嫁と甥に会った。
夜9時半ごろ家に帰った。父と母はとても嬉しそうだ。甥は可愛い子供だから、皆とても好きで楽しい。ですから夜だれも眠られなかった。



中国のお正月        10期生 C.S

 中国の正月は旧暦によって毎年日が違います。今年は2月14日がお正月です。
新年を迎えるのにいろいろな準備をします。部屋をきれいに掃除したり、洗濯したり、新しい服を買ったり、作ったりします。北の方は特に饅頭と年糕(注①)など必ず作ります。その間、休みの日はだいたい1週間くらいです。農村は1ヶ月くらいです。

 大みそかにはお節料理も食べます。鶏、鴨、魚、肉の料理と饅頭年糕などずいぶん豊富です。夜明け前からお正月の朝までずっとバクチクを鳴らします。お正月の朝餃子を食べるの習慣は中国だけあります。ほかにドアのところに対聯(日本の俳句)を張ったりします。子供たちは新しい服を着て、男の子はバクチクと花火大好き。女の子は灯篭遊びが大好きです。大人の人はそちこちの友人のうちに新年のあいさつをします。

日本と同じ習慣が続いているのは「お年玉」や年賀状などがあります。そして燈の会、獅子舞、高踐会(注②)などよく登場します。皆楽しかったです。中国のお正月15日のお祭りもあります。元宵団子(注③)を食べる習慣も続いています。その後お祝いはしないんです。新しい一年の仕事や勉強、農耕が始ります。

 注① 年糕    中国風の正月餅。もち米の粉を蒸して作る
 注② 高踐会   竹馬式の棒を足につけ踊り歩く
 注③ 元宵団子  元宵節(旧暦1月15日の夜)に食べるもち米で作った団子、中に餡が入っている



★第3号  1992.5.20発行 (11期生11名 1992.5月修了)

日本に来て一年        11期生 L.K

 私の名前はL.Kです。私の国は中国です。去年の6月6日日本に来ました。私の家族は五人です。両親と祖母と妹と私です。はじめは、日本は小さい国だと思いました。私は去年の6月から日本語の勉強をしています。日本語はおもしろくありません。でも日本のテレビはおもしろいです。よくプロレスを見ます。

 中国で木材加工の仕事をしていました。仕事は8時から5時まででした。日本で給料が高い仕事がしたいです。まだ日本で困ったことはありません。日本人の友達も一人います。私は一人で買い物ができます。でも、家の中で中国語で話します。一日の中で2時間半だけ日本語を話します。日本の中では長野と群馬と福島に旅行をしました。長野はリンゴがおいしかったです。ほかには秋田と大阪に旅行がしたいです。世界の中ではエジプトとイタリアに行きたいです。ピラミッドや古い遺跡が見たいです。中国に帰る時は、オートバイを持っていくつもりです。将来の夢は世界旅行をすることです。そのためにがんばりたいです。



春の社会見学        11期生 M.H

 5月7日に東京に行きました。朝6時に起きました。7時半ごろに家を出ました。8時20分に辻堂駅で集合しました。8時30分出発しました。バスで行きました。社会見学に参加した人は34人でした。11期生と12期生でした。指導員3人でした。身元引受人は3人でした。日本語講師は4人でした。センターの職員5人でした。国際女子研修センターの人も参加しました。
高速道路が渋滞でした。1時ごろに新聞社に着きました。新聞社で中国語のビデオを見ました。2時くらい衆議院議員会館食堂で食べました。日本料理を食べました。おいしかったです。それから衆議院本会議場や、天皇のお休み所を見学しました。おもしろかったです。帰ってきたとき、バスの中でうたをうたいました。一日中とても楽しかったです。


*朝日新聞社東京本社と国会議事堂の見学は、藤沢市の林様の寄付により実現いたしました。



★第4号  1992.9.22発行 (12期生6名 1992.9月修了)

ありがとう        12期生 D.F

 去年の10月に中国の天津市から日本へまいりました。日本に来てはじめて日本語を習って一年になります。ただし神奈川県帰国者自立研修センターでは、日本語を習って八ヶ月です。県と市と区の方には、家族の日本語の勉強や生活にご配慮いただきました。研修センターの所長や事務員先生にお力添えいただきました。また、私たちは指導員と保証人にもういつもお力添えをいただきました。日本語の先生は辺野喜先生と秋山先生と一生懸命日本語を教えてくださいました。日本語授業の方も真面目だと思います。学生がいつも重要な時に聞いてくださいました。そして帰国者に理解がある先生です。

 今、私は日本語を習って情報がたいへん増え簡単な日常生活用語の方は、ゆっくり話されば聞けるようになりました。研修センターで勉強している時、努力しました。しかし日本語を習得するのは遅いですが残念ですね。私たちは日本へ来て生活し住んでいるので日本語ができることは大変重要です。生活や仕事や社交は日本語ができないとたいへん困ります。
学校で勉強が終わってもその後で自分と家族はそのまま日本語を勉強します。日本語を見たり聞いたり読んだりしてがんばります。その中でも話すことが一番重要です。

 勉強が終わり、心から政府や研修センターの皆さんに感謝します。心から指導員と保証人に感謝します。心から辺野喜先生と秋山先生に感謝します。
本当にありがとうございました。



卒業感想        12期生 D.B

 「氷氷君」は日本に来てからそろそろ一年間がたちます。この一年近くの間に日本についての事を、だんだん日本語を話せるにしたがって分かるようになりました。

 所沢の中国帰国者促進研修センターについたばかりの時、何も慣れませんでした。部屋が非常に狭いし日本料理が全然食べられなかったし、日本の空気を嗅いだら「なぜこういう変な匂いがあるの」と思ったことがありました。特に、中国から日本に来るものとして、前の戦争のせいで日本人に対してあまり良い印象がありません。だから、日本人に会ったらやはり緊張しました。しかしその四ヶ月間所沢センターの先生と一緒に勉強して、生活して、先生たちのやさしさに感激しました。それから日本人に対する印象がだんだん変って、「日本人の中にはこんな良い先生もいる」と思ってきました。

 今年の二月から横浜に住むことになって、新しい環境の中で生活しています。ここの研修センターと保証人とユッカの会のおかげで日本のいろいろな所に行きました。あちこちのきれいな景色を見せていただきながらいろいろな日本人と会うことができました。その中に、「中国人はお金がない、バカみたいに何も分からない」と思っている人もいるし、「中国帰国者だから、かわいそう」と思っている人もいるし、そして温情を持ってちゃんと手伝ってくれて本気で「氷氷君」と友達になった人もいます。
 相手の笑顔にかかわらずに「氷氷君」に対してどういう気持ちを持っているか相手の目を見ればすぐわかりました。「目は心の窓です」という言葉を日本人も知っているでしょう。

 あと半月の間、センターの勉強が終わるようになって本当の新しい生活が間もなく始まりますから、それから自分の理想を実現するためにがんばりたいと思います。もしも「氷氷君」は誰かに「バカ」と思われたら、そういう人には負けないで、バカからスーパーマンへ頑張って変わって、十年後彼らと会いましょう。

 *B君の字が日本語にないため、私たちは彼の事を「氷氷君」と呼んでいました。



中国帰国者自立指導員として心揺れた日々      H.N

 中国帰国者と関わって三年が過ぎ、今漸く私自身気負うこともなく、気持ちに余裕を持って帰国者と向き合えるようになりましたが、私事でこの九月を以って指導員を離れることになりました。振り返ってみますとこの三年間は十年にも感ずる重みのある日々でした。中国語を役に立てることができればと気軽に受けた自立指導員。専業主婦の私にはあまりにも荷が重く、"自立指導員"この言葉の重みを安易に考えたことを幾度となく後悔したものです。しかし帰国者が私のような者でも必要とし、頼りにしている以上、途中で投げ出すわけにはいかず、帰国者と共に無我夢中で過ごして今日に至りました。
 
 関わった世帯の家族が生活保護から脱却して、日本の社会に溶け込む努力をしている姿に接するとき、多少の不安はありますが、今までの苦労が快い充実感に変わってまいります。彼らの自立に向けて、紆余曲折がなかったわけではありません。一世帯一世帯、家族構成、中国での生活環境、教養などが異なるのですから、それぞれ物事に対する考え方や価値観が違うのは当然のことです。自己主張の強い人、すべてを他人に委ねる人…人と人が関わることの難しさをつくづく感じさせられます。
 ただ共通して感じることは、私どもの立場で頭から日本社会の厳しさ、八ヶ月後の自立について語ることは、かえって拒否反応を起こしかねないということです。
なぜなら、"自立"という二文字は彼らの頭の中にしっかりとインプットされていて、生活の上でも最も大きな不安材料になっているからです。自立に関する適切なアドバイスはケースワーカー、就労相談員から受けていますので、私はパイプ役として接することがよりベターだと判断しました。
 
 私たち指導員は帰国者の日常茶飯事から、公の機関に関わる生活保護、国籍取得、就労活動に至るまで生活のすべてに入り込み、家族の一員になった錯覚に陥りかねません。そんな中で彼らと同じ線上に立ってみると、彼らの立場も少しずつ見えてきて、優しい気持ちで、相手の喜びを喜びとして、痛みを痛みとして感じ合えるようになった時、漸く信頼関係が生まれ、お互いに本音で自分たちの意思を表現できるようになるのだと思います。やがて彼らは期待と不安を抱きながら自立していきます。その時、私の胸に去来することは、彼らを待ち受けている職場での孤立、仕事の厳しさ、日本社会に溶け込むことの難しさ、彼らが精神的人格的に自立する日は果たして訪れるのだろうか…と、私たちの力の限界を感じさせられるのです。

 中国ではまだ"四世同堂"の思想が残っていると聞いています。家族が助け合って、日本に定住して良かったと思う日が一日も早く訪れることを願うばかりです。
今、自立指導員を離れるにあたり、身元引受人、ケースワーカー、研修センターの先生方、指導員の方々のご努力に深く感謝いたします。そしてこの三年間の経験を、帰国者とともに懐かしい思い出として笑って語れる日が来ることを楽しみにしています。



★第5号  1993.1.28発行 (13期生11名 1993.1月修了)

豊かな人生        13期生 S.E

 人生はいろいろあります。どんな人生が豊かな人生と呼ばれるかというと人々によって「豊かな人生」についての考え方は違うでしょう。人間と動物の本質的な違いは、言葉なのであります。私たちはことばで喜ぶことや怒ることや悲しいことが表現できます。そこで現代社会で生活している人々は、本、新聞、テレビなどのマスコミにより知りたいことを知ることができるのです。これはとても大切なことです。私の目から見て、十万円のフランスのハンドバッグも二千円ぐらいのものも同じ感じがします。物を入れるものだけではありませんか?お金持ちなら、十万円のバッグは簡単に買えますが、ふつう働いている人々が給料の一ヶ月分もするバッグを通勤ラッシュに使って、いったいどのような良いことがあるのでしょうか?私はそういう生活をおくりたくはありません。
人間として、生きていくということは、衣・食・住の点でも、豪華でもふつうでも、基本的なことが満たされていれば良いのではないでしょうか?

私は個人の場合を考えてみると、日本に定着することはたいへんなことだと思いますが、この一年の生活をふりかえってみると、「あー、世界はなんと広いのだろう。」きれいな洋服より、おいしい料理より、ずっとすごいと思う日本を自分の目で見たり、自分の頭で考えたりします。そうすると、「あー、日本と中国はこういうふうに違っていますね。」とわかるわけで、自分の人生旅はいろいろなことがあって、びっくりしたり、くやしいことがあったりして、おもしろくて、なんて豊かな毎日だろうと感じます。

 ですから私は勉強する所―大学へ行きたいのです。そこは人生の旅で出会うかもしれない問題が勉強できますから、人間は問題を解決することが豊かなことだと思っていますので、豊かな人生のために、やはり勉強したいと考えています。



おじさん、おばさんへ        13期生 S.R

 こんにちは、今、寒くなりました。おじさん、お元気ですか。
きのう母といもとと私は一緒におじさんのうちにいきました。きのう、おじさんうちいませんでした。おばさんと母一緒に中国料理しました。おばさん料理は上手です。とてもおいしかったです。
 きのう、母と妹と私はおじさんのうちで中国のビデオをみました。楽しかったです。12時から4時30分までゆっくりすごしました。

 帰りの電車は少しこんでいました。だいたい5時ぐらいうちにつきました。たのしいいちにちでした。母からもよろしく、つたえるようにもしております。ありがとうございました。
 おじさん、おばさん、お体に気をつけておすごしください。かしこ。



卒業感想        13期生 S.T

 1989年に妻は日本で別れた45年ぶりのお母さんと兄弟と会いました。そして日本へ来ることを決めました。昨2月17日、黒竜江省牡丹江市から日本へまいりました。今まで十ヶ月近く経ちました。
 初め日本に着いたばかりの私は、生活に慣れませんでした。いろいろ日本の料理もあまり食べられませんでした。日本語がぜんぜんわかりませんでした。今日日本語は簡単な日常生活用語の方はゆっくり話せます。

 所沢の中国孤児帰国研修センター四ヶ月の勉強を終わってから、6月1日横浜市に定着しましt。そして神奈川県中国帰国者自立研修センターで日本語を勉強しています。先生は親切に教えてくださいます。八ヶ月間日本語や日本の習慣などを勉強しました。勉強と同時に、三浦半島と箱根へ遊びに行きました。海岸で先生と一緒の西瓜割りが楽しかったです。ビール工場の見学やいすず工場や鎌倉の見学がおもしろかったです。

 中国と日本は一衣帯水の隣国です。千百年来日中文化交流がつづいています。中国は広いですから、熱帯風景から寒帯の氷祭りまでいろいろ名勝古跡と融合するとなんと美しい国だろうですから、中国の親戚と同僚中国についてのこと、私はよく思い出します。なんとなつかしいことでしょう。

 自立研修センターの勉強がそろそろ終わりです。新しい生活が間もなく始まりますから仕事をしなければならないと思います。ことばも大切です。将来仕事をしながら日本を勉強をつづけたいと思います。勉強が終わり、私は自立研修センターのみなさんに感謝します。
宮部先生と吉田先生に感謝します。本当にありがとうございます。



★第6号  1993.5.31発行 (14期生3名 1993.5月修了)

卒業の感想        14期生 U.M

 光陰矢の如しです。そろそろ八ヶ月の日本語の勉強を終わろうとしています。静かにこの間のことを考えてみると嬉しいこともあったし、悩んだこともありました。これが生活ということでしょうか。
 私は昨年の6月、母と父と三人一緒に日本へやってまいりました。初めは、埼玉県所沢市帰国者研修センターで4ヶ月日本語を勉強しました。今思い出しても、日本語を勉強するというより、むしろ日本の生活に適応するための準備でした。そのうちに勉強をおいて遊んでばかりいましたたくさんの友達を作りました。毎日とてもたのしかったです。
 
 10月1日、神奈川県横浜市に定住しました。今、国際女子研修センターで日本語の勉強を続けています。毎週木曜日は社会教育です。私によって役に立つと思います。日本のことがよく分かるようになりました。私たちのために早く日本の生活に慣れるように毎週金曜日会話があります。他の行事もあります。例えば、いすず自動車工場とかキリンビール工場とか神奈川県警察署の見学など、鎌倉と花見にも行きました。とても面白かったです。とにかくいろいろな知識を教えていただくと同時に大変お世話になり、本当に有難御座居ます。

 日本は先進国で科学技術もかなり進んでいます。将来日本で生活し早く自立するために職業訓練学校に行きたいと思っています。先進技術や知識を身につけたいものです。私の願望ですが難しそうですけれども信念があり、もっと一生懸命勉強しようと思っています。まだ出来ないことが沢山ありますが頑張ります。ご安心ください。
 いよいよ卒業します。いろいろなことを忘れることがあっても、先生のことはいつまでも忘れられません。懐かしい先生の親切な笑顔、多くのことを教えてくださった様子を覚えております。本当にありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願い致します。
 最後に先生と私の友情の花を私の心に永遠に咲かせるよう祈っています。



職安への車中で        就労相談員 Y.M

 時間がどんどんかけ足で過ぎてゆき、また14期生の就職活動の時期を迎えました。職訓校へ、職安へと足を運びながら、私はまだ残暑が厳しかった昨年9月のある一日を思い出しました。

 その日、私は12期生のAさんと職安へ行ったのです。2、3日前に、やっと日本国籍が取れたAさんは、とても嬉しそうです。
「Aさん、いい名前がついてよかったわねえ。小さい頃の話をするのは、いやですか?」と私。「平気です。厚生省で何度も話したから。何だか物語を話しているような感じよ」とAさん。終戦の混乱の最中、日本人がみん慌ただしく立ち去った建物の中に、生後一年にも満たないAさんが、白いおくるみに包まれて、置き去りになっていたのだそうです。
「みつけた養父が連れて帰って育ててくれたのよ。でもそれを知ったのは、ずっと後のことでした。それまでは両親に対してわがままだったけど、それを知ってからは、毎月両親に生活費を送っていました」。

 そうなのです、当然のことながら、センターに来た帰国者はみんなみんな苦しい過去を背負っているのです。でも、私はついつい彼ら、彼女らを叱咤激励し、やれ日本語の学習が足りない、やれ仕事を選り好みしすぎる、と苦言を呈することの方が多いのです。
「先生、私最近仏像を買いました。これくらい(手で30cm位を示す)の観音菩薩よ。最初みつけたとき、8,000円は高いなぁと買わずにいたんだけど、息子に話したら、すぐ買ってきてくれたの。毎朝顔を洗って着替えをすませると、こうして手を合わせるのよ」とAさん。

 全く意外でした。「Aさん、社会主義の中国に育って、宗教とは無縁じゃなかったの?」…と私。「先生、私、若いころから何も頼るものがなかったのよ。心の中に、何かよりどころがないと不安でたまらないの」とAさん。「何をお祈りするの?」「私はどんなに苦労してもよいから、子どもたちが、みんな健やかに、仕事がうまくいきますようにお願いしますって、お祈りします」「ふーん」と私は穴のあくほどAさんの顔を見つめました。その昔、私の母も、遠く離れた兄や姉を想って、何やらそのようなことを、朝夕仏前で祈っていたっけ…。
でも、Aさんは、また、「私って口が悪いでしょ。思ったことはなんでもズバズバ口に出してしまって、みんなに不愉快な思いをさせるといけないから、毎朝"口和禍のもと、今日も注意して話すこと"って、自分を戒めているのよ」といってカラカラと笑いました。

 どっちもAさんの本心なのでしょう。それにしても、この職安への車中の一時間が、私には何とも貴重に思えました。考えてみると、今まで、Aさんとこんなに話をしたことはなかったのです。
 Aさんの希望した「ホテルの掃除の仕事」は残念ながら日本語の会話力がカベになって、みつけることはできませんでしたが、病院内の仕事がみつかりました。
 「先生、私、一生懸命働きます。そして子供たちを呼び、日本で親子いっしょに暮らすのよ」いつもなら「あなたが自立することが先決よ」と一本釘をさすことを忘れない私ですが、「そうね、がんばってね!」と背中をたたいて励ましました。



★第7号  1993.10.15発行 (15期生5名 1993.9月修了)

卒業にあたって        15期生 T.H

 私は去年の10月9日に日本に来ました。もう一年くらい日本にいます。私の家は川崎市にあります。私の家族は今3人です。中国に娘が3人います。全部で6人です。
私の両親は亡くなりました。中国に養母がいます。私は家で家族と中国語で話します。私は日本語があまり話せません。でも、中国の娘たちのことが心配です。早く会いたいです。だから、早く仕事がしたいです。でも、残念です。私は将来勤めます。そして、中国の娘たちを早く呼びます。今たくさん、日本語を勉強してがんばります。先生、指導員さん、保証人さん、そしてたくさんの人に感謝しています。今まで、どうもありがとうございました。



いま10年目を迎えて        日本語講師 K.M

 帰国者の方たちと日本語の勉強で係わって数年、この9月で10年目に入りました。
顧みますと10数年前中国残留日本人孤児の親探しが始まったころから、敗戦時の中国で孤児が発生する状況を目の当たりにした私は強い関心をもち、何かの役に立ちたいと思っておりました。そしてボランティアとして藤沢に会った事業団に出入りさせていただき、帰国者の方たちと係わり始めたのでした。その後、日本語講師として接していくうち、想像していた以上に日本に定着することの厳しさを知りました。当然のことながらいろいろ難しい問題もありました。でも、現在まで接した方たちのほとんどは、連れ合いの中国人も含め人間どうしのつながりというのでしょうか、今でも楽しい思い出がたくさんあります。

 この10年ほどの間に状況は確かに変わってきていますが、帰国者が異文化圏に住む時の戸惑い、無理解は、平常、人が何らかの意思で生活を築くために移り住むケースとは全くといっていいほど異なり、想像を超えるものがあります。しかし、限られた情報量の中で選択して帰国した人たちだけの責任ともいいきれないのも事実です。また、発生の原因が原因だけに、国としても対応に苦慮するのだとも思います。

 現場で係わる私どもにとっても、何か納得のいかない面も多々ありますが、少しでも「日本に来てよかった」と一人でも多くの方に思っていただけるような、お互いの心が通じ合うような、そんな係わり方でこれからも努力して参りたいと思っています。



瀋陽での出会い        I.S

 "I老师您好我是T的女儿前来看您,您不在中午十一点钟再来"

7月16日、瀋陽鳳鳳飯店に昨15日夕方到着以来、待ちに待っていた私の可愛い友達です(初対面)。前記のメモを受付から手渡されたのです。それは、第三回日本語独学弁論大会(於・東北工学院)に参加して、昼食を終えホテルに戻ったごご1時30分ごろでした。

ああ、折角来てくれたのに、さぞかし心配しているのではないか…等あれこれ考えていたけれど、午後の行動開始前の2時30分、ロビーに降りていったとき、大きな声で「Iさん」との連呼の声が耳に入ってきました。それは同行の男性の方でした。そちらに向かって歩みを始めた私の目に、黒いワンピースで丸顔のポニーテールのお嬢さんが写りました。一目でTさんの娘さんだと分かりました。でも一人しかいません。その娘さんに、三人ではなかったのかと矢継ぎ早に尋ねると、残る二人は街に買い物に出かけていると言いました。

待つこと10分、背が高くて色白の二人の娘が帰ってきました。立ち上がり二人を抱きました。成りゆきを見ていた男性諸氏の目頭が赤く変化して、ハンカチで涙を拭いて私どもの対面を見守っています。本当に、思わず抱いた私に母のようだと言いながら泣いています。いとおしくて可愛い娘さんたちです。

 政府の政策で、20歳未満の子供だけが一緒に帰国することが可能で、20歳を過ぎると不可能です。したがって、26歳、24歳、22歳の三姉妹は父母のかつての農耕の地を耕しながら暮らしているのです。この三姉妹を中国に残し、18歳の息子を連れ一足先に帰国している父母。そして残された娘たちの気持ちが痛いほど分かるため、抱きしめながら溢れ出る涙を拭い去るのも忘れていました。あらかじめ日本で録音していった両親の声を聞かせると、また涙の連続です。特に末娘は、「想妈妈」「想妈妈」の連呼です。
力いっぱい三人を抱え込んだ手で、順番に頭を撫でながらも声は出ません。
そんなことの繰り返しが一時間も続きましたでしょうか。途中から彼女たちの母の叔父の息子さんがホテルへ来てくれましたので、持っていったお土産のカメラの写し方を教えたり、洋服に靴にと見ているうちに高ぶっていた気持ちも落ち着いてきました。

あっという間に時間が流れ夕方になりました。彼女たちは今夜8時頃の汽車で、とりあえず母の妹が住む昌図まで、特急で3時間かけて帰り、明日午前のバスに乗って全家鎮万宝村まで帰るのだと言います。出発前、父親から聞いていた瀋陽市まではとても近いとの言葉を信じていた私は愕然としました。そんな遠いところから長い時間をかけて私たちに会いに来てくれた彼女たちと、このまま別れるのは切なくて胸が痛みます。そういう私もその夜、遼寧省対外友好協会の招宴に出席の予定もあります。彼女たちを玄関前に見送る私に、何度も何度も振り返りながら手を振って帰途につく後ろ姿は、彼女たちが心を残しながら泣く泣く帰るのだと物語っています。母への思い、父と弟への思いが滲んでいます。
"一日も早く日本での再会を"、と心に誓い、帰国した今でもあの時の三人の姿が脳裏から離れません。



★第8号  1994.5.2発行 (16期生2名 1994.2月修了、17期生10名 1994年4月修了)

夏休み        16期生 A.M

 今月9日から16日まで夏休みでした。7日と8日も休みでした。私と主人は一緒にお兄さんのくるまにのりました。二宮に行きました。お墓まいりしました。二宮はおとうさんのふるさとです。私の本籍があります。おはまいりがおわりました。その後くるまに乗りました。平塚市のお兄さんの家に行きました。

お姉さんはわたしたちを家で親切に歓迎しました。お姉さんは私たちを日本料理で接待しました。私たちは食べました。お姉さんの日本料理はおいしかったです。私は「ごちそさまでした。どもありがとうございました。」と言いました。
 おじさんとおばさんもお兄さんの家に来ました。お兄さんの家で食べました。おじさんと主人は親しく話しました。主人はときどき日本語を話しました。おじさんの日本語の話は、私はときどきわかりませんでした。少しわかりました。おじさんと主人の話の内容は、私は全部わかりました。おじさんに、「私たちが努力して日本語の勉強をします。」と言いました。以後はおじさんの家に行きます。日本語を話します。ごご3時に私たちは別れを告げました。そこで私たちはお兄さんのくるまに乗りました。私の家に帰りました。

感想――日本人は先祖を永遠になつかしく思って、まい年お墓まいりします。日本人は、礼儀があるだけではなく、その上とても文明が進んで清潔です。とても正直で親切です。
私が帰ったふるさとがとても温かったと感じました。私は心配が消えて安心しました。



故郷        17期生 Y.S

 私の故郷は都市から遠く離れたところにあります。故郷はちいさな炭鉱でした。周りは全部山です。私はここで生まれ、ここで育ちました。
小さい時、家の後ろに空地がありました。この空き地を利用して野菜を作りました。春になると父と母は、暇なとき、この野菜畑にいろいろな野菜をまきました。山の上にいろいろな名前も知らない花が咲きました。黄色、青、ピンクの花が一番多かったです。
緑の山はきれいな花で飾られ、春の山は一番きれいだと思いました。
家の前に小さな川が流れています。この川の水がとてもきれいで、夏にはよく姉たちとこの川で遊びました。

夏、私が一番好きなのは雨上がりの時です。この時外は空気が大変新鮮で、万物がきれいになるのを感じていました。
秋になると木の葉は黄色に変わりました。自然に育った物が山から採れます。茸は皆が好きです。たくさん採るとさらします。冬も食べられます。冬が来ると降りつもった雪が山や建物を覆い、荘厳な雰囲気があふれます。でも私たちは雪で雪だるまを作ったり、楽しくて笑う声がよく聞こえます。

 私の故郷は一年中四季の色が変わります。その自然の彩が、私の子供時代楽しさを、より一層印象深いものにしています。



★第9号  1995.1.31発行 (18期生19名 1995.1月修了)

油煙        18期生 H.O

 所沢センターに入ったばかりの時、台所の清掃担当することになった。その時、たいていの日本人は油煙を嫌うという話を聞いた。でも中華料理にとって、美味しそうなにおいがするのは大切なことだ。
 横浜に引っ越した後、すぐ換気扇を買っておいた。そうるすと大丈夫だと思ったけれども、その一週間後、真上のおばさん家へやって来た。いくら言っても全く分からなかった。

 うちの団地は帰国者や外国人が何戸も住んでいる。バスの中でおばさんたちはよく話題にした。彼らの話は少しずつわかってきた。中でも最も多いのは、やはり油煙のことだった。
その後、料理する時、なるべく早く出来上がるために、材料などはきちんと用意する。それだけでは油のにおいはまだなくならない。調理の方法は、変えようにもなかなかできなかった。何といっても、油で炒める料理を中心としたのは、何十年も持っている習慣だから。

 日本で初めてのお正月を迎えた。たくさんおいしく炒める料理が作りたかったけど、ずっと我慢していた。その代わりに「煮る」「揚げる」のものをどんどん作ってみた。いつもおいしいとは言えないけど、ただ前の調理のたび、必ず周辺を拭くことをしなくても「油汚れ」にならない。それだけから見ると、料理の手間がすごく省ける。それに強いにおいもしない。これから日本家庭で和食や洋食を食べるように、色んな方法で料理を作ってみようと思っている。



初詣        18期生 H.K

 初詣について初めは日本語の教科書の中で知った。
その時からずっと日本の初詣の様子を見てみたいと思っていた。今年は初めて日本の元旦を迎えた。私は大晦日の夜11時過ぎから元旦の朝にかけて鎌倉に出かけた。JR鎌倉駅を出て若宮大路がたいへん込んでいた。駅から八幡宮まで1時間半かかった。そうして日本人の様子にならって、神様を参拝した。家族の健康と幸福をお祈りした。八幡宮境内に設けられた数か所のお札授与所で、破魔矢やおみくじを売っている。みんな買っているので私もひとつおみくじを買った。見たら「中吉」と書いてある。とてもおもしろかった。

 私は初詣の人がだいたい年寄りの人と思っていたが、実際は大部分は若者である。本当に神様を信じる人は少ないと思う。たぶん古い習慣であると思う。
中国の場合は、新年になるとみんなお寺や神社に参拝することがない。特別なのは花火である。子供たちや千年たちは、ほとんど外で花火をする。夕方から空も花火のきれいな色で染まり、どこでも爆竹の音が聞こえる。とてもにぎやかだった。

 今中国の正月が懐かしい。でも日本で初めての元旦を楽しく過ごすことができた。いろいろな日本事情を知っているのは大変いいと思う。



★第10号  1994.10.9発行 (19期生17名 1994.9月修了)

コンサートの会の感受        19期生  C.K

 3週間程前に、私は先生と一緒に参加したのは、戦後50年のコンサートの童謡の会と集いの中で、みんな歌を歌いました。でも歌の意味が分からないない時には、日本人が歌の意味を教えてくれました。そして、いろいろな歌を歌いました。

 戦後50年、みんな平和な生活を送っています。みんなの顔は喜びで笑っています。その人たちも、心の中には悲しい思い出があります。それはたくさんの人が戦争の時、家族を失った思い出を持っています。みんないつまでも平和で暮らしたいです。戦争は苦痛です。全世界の人民の希望は、平和です。みんなの心情が歌に表わされていました。



これからの希望        19期生 J.K

 日本に来てもうすぐ一年になります。研修センターの勉強も今月の末に終わる予定です。今、自分が将来の道を決める時だと思います。
 
 私は中国にいた時大学を卒業しました。日本に来てから、私は科学技術が進んでいる日本では、技術と技能を身につけることがとても必要だと考えました。すこしべんきょうしただけども、日本と中国では勉強した内容は違うと思いますから、私はもっと勉強したいと思っています。そして、日本にはいろいろな学校がありますが、どうすればいいのか、私は迷いました。もし大学に入れば四年の学習時間が必要です。26歳の私にとって、年齢を考えるとあまり適当とは言えません。そればかりでなく、現在の日本経済は不景気なので、大学生が就職するのはなかなか難しいです。四年後、どんな様子になるかもよくわかりません。

そのほか、専門学校に入ることも考えました。しかし、専門学校で勉強する費用は高いので、日本に来たばかりの帰国者として、今の生活はあまり豊かではなく、このような費用は支払えません。そのため、私はこの二つの進路を選びませんでした。
 職業技術校という学校は、所沢にいた時、聞いたことがありますが、職業技術校についての具体なことはあまり知りませんでした。研修センターに入ってから、先生から詳しく話をしていただいて、私はよく分かるようになりました。

職業技術校は専門は技術を学びたい方のために設立している学校と聞いています。
研修期間も短くて、授業料も無料です。それに、卒業が近づくと就職活動を手伝ってくれると聞いています。それで、今の私にはこの道がいいと思いました。
 職業技術校に入れたら、私はぜひ一生懸命勉強して、仕事して、早く社会に役立つ人になりたいと思っています。
来年の3月の選考まで、まだ半年くらいの時間があります。これから、私はもっと日本語を勉強しながらアルバイトするつもりです。頑張ります。



★第11号  1996.6.9発行 (20期生12名 1996.5月修了)

平和が何より―茅ヶ崎市立小出小学校を訪ねて―      就労相談員 Y.M

 2月21日、帰国者のN.Kさんと私は、小出小学校を訪ねました。6年生の児童にNさんの残留孤児としての経験を話してほしいという要請にこたえてです。まず、校長室に招じられましたが、壁面にずらりと飾られた歴代の校長先生の写真に目をうばわれました。120年も続いている由緒ある学校とのことでした。

 やや緊張気味のNさんと4階の教室に入ると、70人の子供たちが、元気な笑顔で「こんにちは!」と迎えてくれました。Nさんはなるべく日本語で話したいということで、ところどころに私の通訳が入りました。以下はNさんの話です。

 私は今年62歳。7歳の時、家族とともに栃木県から中国(旧満州)吉林省郊外の開拓団に入りました。1944年、父は出征、でも遠い小学校の寄宿舎にいた私は、父を見送ることもできませんでした。1945年、日本の敗戦、父はそのままシベリアに送られました。帰子女ばかり残された開拓団の生活は、ソ連軍の参戦や現地住民の日本人への反発などあって、悲惨なものでした。当時中国は国民党と共産党の内戦で混乱が続いていました。生活は苦しく、幼い妹二人が死にました。母や兄が働きに出たあと、ひとり家で飢えや病気で動けない私(当時12歳)を見かねた中国人(のちの養父)が、私を引き取ってくれました。

 1946年、日本への帰国が開始され、母が私を迎えに来ました。帰国列車は明日出発ということで、私は町に準備の買い物に出かけました。でも道に迷い、夜になって戒厳令のしかれた町を歩くこともできず、その晩は橋の下で野宿しました。翌日、養父に連れられて駅に駆けつけた時は、帰国列車は影も形もありませんでした。
幸い養父母は優しい人で、私を小学校や技術学校に通わせてくれ、私も一生懸命勉強しました。一方私は、父や兄、自分の名前を繰り返し口に唱え、土に書き、記憶にとどめました。また、ひらがなの五十音も忘れないよう、繰り返し土に書きました。

 1956年結婚、1972年日中国交回復、しかし怖くて、なかなか自分が日本人であることを名乗れませんでした。1980年、思い切って日本大使館に手紙を書きました。しばらくして返事が来て、父が生きていて神奈川県の川崎市に住んでいるということで、ほんとうにうれしかったです。

 1981年、父が中国に来てくれ、35年ぶりに父娘対面が実現しました。父は「一緒に日本へ帰ろう」と言いましたが、私は「35年も私を育ててくれた養父母をおいて帰るわけにはいかない」と断り、父も納得してくれました。
3年前、相次いで養父母が亡くなり、やっと日本への帰国を決めましたが、父や兄はすでに亡く、再び会うことはできませんでした。
日本に帰って一番困るのは言葉の問題で、日本語を教えてもらっても、なかなか覚えられません。でも焦らず、一歩一歩新しい生活を歩みだそうと思います。

Nさんの話が終わると質問の手が挙がりました。

 -橋の下で一晩過ごしたときはどんな気持ちでしたか?
 -農村ではどんな物を食べていましたか?
 -中国での名前は何と言ったの?誰がつけたの?
 -中国ではどんな仕事をしていましたか?
 等々…

 時間がきて、別れのあいさつをした時、突然「謝謝」という声が聞こえ、Nさんが「えっ」と、そちらを見ました。続いて「你好」と聞こえ、教室中に笑い声が…。
得意そうな顔の男の子がひとり。そこで私も言いました。
「じゃあ、もうひとつ覚えて、さよならはツァイジェン(再見)と言うのよ。」
みんなの再見、再見の声に送られて教室を出ました。
後日、小出小学校の6年生からNさんにたくさんの手紙が届きました。



高校生活        19期生 C.H

 私は日本来てもうすぐ一年になります。一年でセンターの先生にとてもいい勉強をさせていただきました。先生たちは私たちに自分の子供ように、温かい気持ちで面倒をみてくださいました。
 初めて日本に来たばかりの時、日本語と日本の生活習慣を知らなかった。中国いた時、日本のサービス態度一番良いとか日本は経済大国とか日本の科学技術が発達しているとか、それだけ聞くことがありました。なるほど、日本では買い物とか病院とかガソリンスタンドとかどこでもサービス態度がすごく良いです。

 早いものでもうすぐ卒業します。でも日本語もまだまだ分からないので、日常生活で困ることがありますが、将来のために私はよく考えてY校夜間高校へ入りました。今センターを卒業する前に、昼はセンターで日本語の勉強をしながら、夜は高校で基礎的な知識を勉強しています。
高校の先生たちとクラスの同級生は、私にいろいろおせわをしてくれます。いつも日本の言葉教えて、まちがった時なおしてとても親切です。

 私のクラスは30人ぐらい。男子はちょっと多いです。日本の男子は話す時とてもはやいから分かるとき少ない。女子は話すとき少し早いけど、時々意味は分かります。でも自分で考えている意味は話せない。その時、私の気持ちは何と言っていいかわからない。最後みんなと話せなくてとても残念です。でもみんなは私の不十分な言葉を分かってくれるので、だからいつも私もっともっと努力して話せるようになるつもりです。どんな困難があっても、必ず高校を卒業します。



★第12号  1997.1.10発行 (21期生19名 1996.12月修了)

一足先に就職して        21期生 X.K

 異国で五十余年間暮らした私が、祖国日本に帰国して9月ぶりに社会に入って仕事を探すのは、ちょっと無理だと思うけど、残留孤児としても早く生活自立するために、または中国にいる子供たちを早く日本に呼んで、家族全員がそろって力を合わせて幸せな家庭を築くために後3カ月の日本語の勉強期間があるけど、できるだけ日本の社会に入って仕事を探して会社に勤めるのが私の欲しいですから、センターの先生と相談した後、先生の方々のおかげさまで、今、自分にもってこいの仕事に勤めています。

 初めに社会に入るときは、言葉ももちろんいろいろ心配なことがおこってきました。
例えば、人事関係や仕事のやり方や、特に日本語が上手じゃないから仕事に慣れなくて、他の社員に迷惑をかけたらどうするか、または社長にしかられたら…等が心配だったんです。でも、2ヶ月たって今までの会社の生活を思えば思うほど、良い会社へ入ったな感じがあります。会社社員全員がとっても心良い親切な方々です。特に社長は、私の言葉が下手けど、私の話しを聞いた後すぐ理解して、私の具体的な家庭問題も解決してくださいました。つまり中国の子供たちを呼ぶの書類を作るとき、保証人が必要ですからと話したが、社長よりすぐ応答して私の子供の保証人になりました。

 ここで私はもう一回、「いい上司に恵まれるということは、社員にとって最大の幸運である」を確認しました。それから私に一番大きな心配だったの子供を呼びの問題が解決されました。私は会社に入って初めの日から今までずっと力いっぱいに働いている他に、際があれば会社のところどころを掃除したり、ちらすの品物を片付けたりして、会社の内外をきれいになりました。そして会社全員が私をほめられて話すのは、「Xさんが会社に来てから会社の内外は本当にきれいになりました」と言われています。
その時私は、こちらは私の会社だからもっときれいになる方がいいですよ…。

 日本の会社に入って2ヶ月たった今は、私が初めに持っていた気持ちと心配は全く変わりました。短い時間けど、社員全員が私の親切な友達になって、皆さまが仲良く力を合わせて会社の仕事に頑張っていきます。ここで私の考えは、また少ない余生を会社のため、自分の家族を幸せな家庭を築くために自分の一切を貢献したいと思っています。これが私より日本政府とセンターの先生皆様に恩返しすることと思います。



日本語を学ぶ 再研修クラス        M.M

 「私たちは中国にいた時、日本人の孤児だったが、帰国したら中国人の孤児になった。」
これらは中高年の帰国者の切実な声です。なぜなら、日本語ができなくて日本社会に溶け込めないからです。

 日本に来た時は、話せない、聞けない、見えないの三重苦の障害を背負ったようでした。県の中国帰国者自立研修センターで八ヶ月日本語、生活ガイドなどの授業をうけて、日常生活では困ることは少なくなりましたが、就職するとまた大きな壁にぶつかりました。それで教科書を復習したら、新聞を読んだりテレビで聞いた言葉を暗記したりしました。センターの先生から、仕事に役立つ資料をいただいたりして、働きながら日本語を自習し、仕事にもだんだん慣れてきました。

 しかし、生活にも仕事にも慣れたのに、いつも何かが欠けているような感じがしていました。考えてみると、以前より物資的な生活は豊かになったが、精神的な生活は貧しくなっていたのです。
小説やドラマの意味だいたいわかっても、ユーモアとか芸術性などが分からない。日常使う口語の壁も厚く、待遇表現もうまくできず、人と付き合うことにためらいがある。そのため日本文化の全貌、日本人の風俗習慣など、まだまだ深く分からない。これはすべて、まだ日本語のレベルが低いせいだということが分かりました。

 日々このような苛立ちを感じていたころ、研修センターから日本語生研修クラスを設けるという知らせをうけました。私たちは勇んで参加しました。「日本語を話そう」のテキストで、日本語学習はもちろん、テーマ別の日本事情を勉強しています。
日本語で話したり、作文を書いたり、新聞を読んだり、とても優しい先生方が真面目に授業してくれ、私たちも頑張っています。日本語を学びながら日本についての知識も得られるし、おもしろさもあります。「一石何鳥」かで、本当によかったと思っています。
 人は自然に母国語を話せるようになります。しかし、文化の体得、理解はまた別のことです。長く勉強しないと得られません。日本語を話すことから初めて日本文化を身につけることは容易ではありません。日本は昔、中国文化の影響を受けて、その後独自の文化を築いてきました。中国と日本の二つの文化を理解できたら、私たちの世界は大きく広がります。

 私たちはやがて来る退職後の生活に夢を持っています。車が好きだからタクシー運転手になりたい。図書館で好きな本をのんびり読みたい。スポーツ・芸術・伝統工芸などの講座に参加したい。また日中友好やその他のボランティア活動にも参加して国際交流の架け橋にもなりたい、等です。
 このような夢も日本語のレベルが低ければ夢に終わります。私たちは日本語の習得のためにもっと頑張るつもりです。クラスの期間は長ければ長いほどいいし、多くの人が参加し、みな日本語が上達すればいいと心から願っています。



★13号  1997.10.8発行 (22期生6名 1997.9月修了)

日本に来てよかった        22期生 S.S

 日本に来て、「一番驚いたことは」と人によく聞かれる。私はともすると「ホームレスをよくみる」「おいしい日本料理がある」等と消極的に答えた。相手の強い好奇心を満たせなかった。私の心に浮かび上がってきたのはこの一年間、思いもかけないほど日本社会の暖かさを深く感じたことだ。

 祖母の様子を見ると、少し中国の人と違っているとよく感じるが、私は普通の中国人と同じ考え方を持っていた。日本では人情はうすい。来日の直前、大学の親友の手紙が着いた。「…何プレゼントやれないから、一つアドバイスをあげよう。外国人としてお前が軽蔑されることがあるかもしれないが、余計なことを構わないで、がんばれ…」ということばが私の胸に深く刻まれた。

 初めに私の心を打ったのは川崎に移転してきたばかりの時だった。用事があって、土曜日高崎の友達に会うことになった。高崎駅に出て、住所しか持たない私はどうしようもなかった。交番で地図を描いてもらった、徒歩30分かかることがわかった。だが、途中に迷子になってしまい、庭の手入れをしていたおばさんに聞くことになった。ところが、説明が難しくて、聞き取れなかった。ついに、そのおばさんが私をつれて友達の家まで案内してくれた。歩いて15分ほどかかった。私は少し感動された。

 神奈川県自立研修センターで8ヶ月の勉強がきっかけになり、私の考えが全く変わった。学校の先生は授業の時、一生懸命教えてくれたり、覚えさせられるために何回も繰り返したりして、間違ったとき熱心に直し、身につけるまで続けた。自分がやりたいことがあったら、どの先生に聞いても、いろいろを考慮し、適切な指導をしてもらった。日本の社会は言うまでもなく、中国の世の中のこともよくわからなかった私に、先生方はわざわざいろいろな例をあげて教えた。将来のために、私の思いがけない道を見つけ、相談に乗ってくれた。がっかりしていた時に、先生がよく理解してくれ、心を開いて相談してくれ、私はすぐに疑問が解消できた。先生の仕事は限りない。

 8ヶ月の間、昔のイメージが消え、親友が心をこめたアドバイスがもう一回考え直すようになった。私は温かさに接して、今ではすっかり落ち着いている。日本ではこんなに親切にしてもらえるとは私にとしても考えもしなかった。日本に来てよかった。もうすぐ本当の日本社会に入るが、積極的に一歩一歩進もうと思っている。たとえどんな困難があっても、センターの先生やここでの出来事を思いながら、自信を持って、自分なりに精いっぱい歩むことだ。周囲の方々の助力で私は積極的な考えに変わってきた。私にとっての一番の驚きは日本の温かさでなくて何であろう。



★14号 1998.6.5発行 (23期生6名 1998.5月修了)

日本の印象        23期生 S.R

 日本へ来る前に、日本は経済も発達し、人達の生活レベルも高いし、中国よりすごくいい所と言われた。日本へ来たばかりの時の日本の第一印象は道路も部屋もせまいのでちょっと失望した。
日本に住んで半年になった。元の感じがだんだん変ってきている。交通とか科学技術とか各方面から見て、日本はいいところだと思う。

 日本は道路が狭い、けれども全国の交通網はとても発達していて、どこでも行きたいところに行ける。もちろん飛行機、新幹線に乗れば、速いし安全だし、すごく便利だ。今、日本は科学技術を使って新しい型の新幹線をよく研究している。図書館とか公園とか体育館とか、公共施設が完備されている。人達の生活が楽になっている。中国はいつこの様子になるのだろうと思う。



学校のおもしろいこと        23期生 S.S

 興味深かったので、私は高校三年生の時、医科大学の試験を受けて合格し入学した。一般に考えられているように、医学の勉強はとても大変だ。"教科書"の内容と先生の講義を全部覚えなければならない。私の周りの学生達は常に一生懸命勉強している。

 日本へ来る前、一年間医学の基本的な知識を勉強した。例えば、解剖学や組織学…その中で解剖学は一番好きな学科だと思う。それを勉強する時、必ず死体と接触した。でも人間の体の構造や臓器の位置など了解できてすごく面白い。骨や筋肉を間違うのでおかしいこともよく出た。

 ある日、授業の前、筋肉の復習をした。先生は「肛門の筋肉は何筋ですか?」と聞いたとたんに、一人は「平滑筋です。」と答えた。みんなすぐに腹を抱えて大笑いした。正しい答えは「収縮筋」だ。肛門の筋肉は平滑筋なら大便を抑えられない。
 私は日本で医学を勉強したい。この目標のために頑張る。



★15号 1999.3.20発行 (24期生15名 1999.2月修了)

遠い日本の生活        24期生 W.N

 私は日本に来てもうすぐ一年になります。最初のころは困ったことがいっぱいありました。その時はよく「中国での生活の方がいいなぁ」と感じました。
私は中国で医療関係の学校で一年間勉強しました。学校での生活はほんとうに楽でした。昼間は授業をやって、好きな科目だったら良く聞いていましたが、もし漢方医学のようなつまらない科目だったら別の本を読んだり、寝たりしたこともありました。夜も時々授業をやります。授業がない時は、宿舎で友達と話をしたり映画館で映画を見たりしました。毎日このように過ごして何のために生きているのか、全く考えたこともありませんでした。

 私は新しい生活をしたいですから日本に来るのを決心しました。でも12年ぶりに再度日本に来て、私はびっくりしてしましました。それは私の想像よりすべてが「速い」ということです。例えば中国と違って、歩いたり自転車で通える学校や職場など日本ではほとんど考えられません。ですから朝街で走っている人は珍しくないです。「日本人は毎日生活に追われて、きっと疲れるでしょう。私はこのような生活ができるかしら」といろいろ心配していました。

 私、今は日本の生活にも慣れました。私もほかの人と同じように走っています。毎日精一杯がんばっています。時々疲れることもありますが、今の生活は楽しいです。
 日本に来て本当によかったと今、私は思っています。



父        24期生 K.H

 晩御飯の後、やっと父が帰ってきた。家の中の一番大きい旅行かばんを背負っていて、両手で一つずつ買い物用のビニール袋をさげていた。「あの店はきょう安い。お米は2,980円、営業は8時まで。もう一回行って4袋買おう。」「1本ビールを持ってきてくれ。」と父が言いながらかばんを下ろした。10分ぐらい経って、私はお椀を洗っていたとき、「45分に駅の改札口で待っていてくれ」と言って、父はあの空かばんを持って出かけた。

 改札口に着いたとき、ちょうど45分だったが、多くの人々が中から出て来た。その時、一つの声が私の耳に伝わった。声の聞こえる方を見たら、父が私の方に向かって来た。私も父の方へ向いて行って、持物を受け取った。一つの袋にはフルーツが入っていて、もう一つのはお米で、ちょっと重かった。帰る時、父が前を歩いていて、見るとかばんが重そうで、ぶら下がっていた。ちょっと太っているからだが歪んでいたので、背が低く見えた。その瞬間、温かい感じが私の心から湧き出した。父は長い間ずっと自分の力で家を支えていた…。

 一歳未満の時、父は中国の東北地方から今の故郷に定着した。中学卒業の時、担当の先生は「地区の一番いい高中に合格した。」と言ったが、入学通知書がなかなか出来なかった。それに連れて、もう一つの夢にも水泡に帰した。軍隊に入隊することも駄目だった。一切の原因は、「母は日本人」だけである。その時、父はまだ16歳なので、正式の仕事ができなかった。一年間、石炭運びや砂袋を背負う仕事をしていたが、1ヶ月間の給料はわずか16元であった。

この後、営業員から経営者まで32年間同じ会社に勤めていた。40歳の時、ようやく短大の学歴が取れた。いつも仕事が忙しくて、いつも別の人より遅く家に帰るのは、私が残った父の印象である。
 知命の年、日本に帰国して、苦難を乗り越えた父は第二の人生の挑戦が始まり、懸命に努力している。前を歩いている父の背影が目に大きく映った。父さん、お疲れさま!



★16号 1999.10.8発行 (25期生18名 1999.9月修了)

友達になるチャンス        25期生 C.K

 私は中国の運転免許を持って日本に来ました。でも、日本で運転することはできません。警察署の運転試験へ書き換えに行かなければなりません。そして、私はF先生とS先生に二俣川の運転試験場に連れて行っていただきました。その日の午後、ペーパーテストに通りました。翌日の運転実技は通りませんでした。日本で運転したことがないので、いろいろな交通規則が分かりませんでした。しかし、早く日本の免許証を取るために、土曜、日曜に二俣川練習場で運転を習っています。

 初めて会った先生は、背が低くて細くて歩くのが早い、N先生と言う人でした。挨拶後、一緒に車に乗って、練習始りました。私が運転すると、先生は、いろいろ注意項目を話しました。私が、うるさい先生に感じました。でも先生の話をよく考えて見ると、全部有意義な話でした。これから後、6時間の練習をしました。毎回の練習中で、N先生は私に親切で、詳しく教えてくれました。私は先生の顔に玉の汗かいたのを見て、心から先生に感謝しました。そのあと、うるさい先生だと思うことがなくなりました。先生に対して尊敬だけが残りました。毎度試験前に、N先生から激励の言葉をいただきました。そして、自分で強い自信や先生の激励を持って、やっと8回目で実技試験が通りました。5月17日午後5時に日本の運転免許証を持って家に帰りました。

 部屋に入って、すぐこの嬉しいことを先生に電話で話しました。先生はとても嬉しそうで、「おめでとう。よかったね。」と言いました。その2、3分ぐらい後に、先生から電話をいただきました。先生は、「私が嬉しいですから、明日午後5時半に相模大野駅で会いましょう。」続いて行き方を詳しく教えてくださいました。翌日夜、私は一番きれいな洋服を着て、心ばかりのお礼を持って相模大野に行きました。レストランで生ビールを飲んだり、焼き鳥や刺し身を食べたり、いろいろ話をしました。私は日本語が上手じゃありませんけれど、出来るだけ話しました。複雑な言葉は、書いたらすぐに分かりました。その夜はとても嬉しかったです。

 その後、N先生によく電話します。先々週は車で私の家に遊びに来てくれました。家内が餃子などの中華料理を作って、一緒に食べたり飲んだり、話したりしました。先生との関係が深まって、良い友達になりました。



日本に住んでいる感想        25期生 S.S

 日本に来る前に私はうれしかったです。中国では日本を見ると日本は先進国です。とてもすごいですね。だから日本に行くことができる人もすごいです。私の学校の先生がたは、私が日本に来たことをとても羨ましがっています。でも私はちょっと心配していました。日本語ができません。どうしましょうか。所沢にいったばかりです。言葉が全然できません。例えば、「お名前は」とか、「おいくつですか」とか。

 私は幼稚園の子供より言葉が下手です。横浜に8ヶ月に勉強して簡単な会話大丈夫だと思います。でも仕事をさがしているとき、私はろうあ人の障害者になっています。いろいろなことが私を扱き下ろしました。初めて私は軽蔑されています。日本では私の自信がなくなりました。
 今考えてみると、どうして日本に来ましたかわかりません。見栄心を持っているかもしれません。



★17号 2000.6.20発行 (26期生8名 2000.5月修了)

日本の伝統文化を習って        26期生 K.A

 2月28日に先生と生徒と研修センターの2階で茶道がひらかれました。そして日本の伝統や習慣などいろいろと教えていただきました。
まず、客として訪問する時のことです。顔は自然に微笑しながらあいさつが必要です。それから茶道の事です。初めて日本の有名な茶道がわかりました。茶道で使う茶托は、中国の秦の時代に造られた銀製品です。お茶お入れる順序とか注意事項とか、いろいろ茶について知識を教えていただきました。そして有名な玉露を飲む前におかしを食べました。玉露は少し苦いですがとてもおいしかったです。

 最後におじぎの仕方を習いました。とても丁寧なおじぎ、茶道の先生は、「女性と男性のおじぎの仕方はちがう」と言っていました。女性は両手を重ねて、体の前に付けて大体45度ぐらいです。男性の両手は体の側面においたほうがいいです。 これは本当によかったです。将来にも役にたつと思います。

 以上、先生方から学んだことを生かして、これからの生活を送りたいと思います。



★18号 2001.10.10発行 (27期生4名 2001.1月修了、28期生14名 2001.9月修了)

私        28期生 M.S

 私が生まれたのは中国黒竜江省林口県というところの田舎です。こどものとき私たちは経済的に苦しい日をすごしました。毎日学校が終わってから家事を手伝ったり、弟たちの世話したりしました。私はおとうとが三人います。そのうち一人はしんしょうしゃです。生活がどんなに苦しかったか。今の子供たちは信じられないかもしれません。お金がほとんどありません。ときどき食べ物もありません。家族全員の服は一年一人ずつ一セットだけでした。四季を通じて同じ服を着ていました。そのとき私は家族がいつかこんな苦しい境遇から抜け出せるように、私が大きくなったら両親を手伝いたいと思っていました。祖父と両親は、「おまえは自分と家族のためにいつでも一生懸命勉強しなければならない。いつでも誠心誠意人に尽くさなければならない。何事もまじめにしなければならない。」などどよくいっていました。

 しかしそのとき田舎の学生たちは大学と工場に入ることができませんでした。そして私は高校を卒業したあとで農村へ戻りました。もし鄧小平が共産党総書記にならなかったら、私は今も田舎で生活していたかもしれません。鄧小平の時代から、中国では経済と農村土地改革とか、教育制度改革とか、いろいろな改革がありました。そのあと田舎の学生たちは大学に入れるようになりました。両親は私を高校に復学させてくれました。私が黒竜江省警察学校に入れたことは幸せでした。卒業してから、林口県公安局に勤めました。去年まで14年間勤めました。

 ここを卒業したあと一日も早く安定した生活を築かなければなりません。センターの先生方に協力していただいて仕事を見つけます。就職したら自分にできることを一生懸命やっていくつもりです。でも、私が今一番大切なことは日本語を勉強することです。ここの先生方は親切だし熱心だし経験もあるし、そして私は他のことを考えないで、このチャンスをフルに活かしたいと思います。日本語が早く上手になりたいですから。

 私は祖父と両親の教えを守って将来日本での生活を安定させ、今の家族も中国にいる家族も幸せにする義務と責任があると思います。



秋に思う        28期生 I.K

 ひまわりに照りつけていた夏の太陽が、一日一日と柔らかく穏やかになる。最近、突然の激しいにわか雨がある。だがその雨は、すぐにやんでしまう。木も草も洗われたようにきれいになる。時々、風もさやさや吹く。人に初秋の涼気を感じさせる。さぁ、本当に清澄な秋の訪れである。
 秋は思想の季節である。暇な時、よく故郷の濃い藍色の空や鮮やかな紅葉や友達の顔を思い出す。目を閉じると友達と遊んだ声や泳いだ川の音が聞こえる。そして、友達と一緒に過ごした情景が目に浮かぶ。

 中国にいた時、学校で毎日友達と何でも一緒に行動した。一緒に起きたり食べたり勉強したりした。暇さえあれば本を持って一緒に公園でいろいろなことを相談し合ったり、フルートを吹いたりドラムをたたいたりした。周りで淡いコスモスに何匹かの蝶が戯れていた。気持ちがいい時、よく蝶をつかまえた。とてもおもしろかったし、楽しかった。週末の日には、朝一緒に散歩したりバドミントンやピンポンをしたり、時々バスケットボールもしたりした。気持ちもよかったし、健康にもよかった。昼間、絵を書いたり市の図書館へ行って本を読んだり、レクリエーションしたりした。天気がよかったら草摘みへ行ったりピクニックしたりした。いろいろな学校で勉強できない知識を得された。夜、夕涼みする時、ホタル狩りもした。

 時々、天気がとてもいい時、草原に座って一緒に月見したり、怪談を聞かせ合ったり、将来の夢について話し合ったりした。特に、8月15日の夜空の月はまた格別である。本当に美しかった。庭は、昼のように明るい。池に映った月は、時々さざ波に砕けて、きらきらと光る。月の姿を賞でながら、月餅を食べて池をめぐり歩いているうちに、いつの間にかもう夜明けとなってしまう。その時、私たちはこの世のものとは思えない美の世界、寂光浄土である。人生はこんなに幸せなものだろうか。

 秋になると、この情景に毎日ひたっていたものだ。又稲が実る秋が来た。青紫がかった山、爽やかな風、青く澄んでいる空も同じだ。が、人はもう違う。今、私は一人で淋しい秋を過ごす。
 窓に、つり下げられた錆びた鉄の風鈴に秋風が当たって高い金属音をたてる。それが冷たく私の心にしみいってくる。静かな秋の夜が更けて友を想うと、孤独な寂しさが胸にせまる。深まりゆく秋の静寂を感じる。



★19号 2002.9.10発行 (29期生14名 2002.8月修了)

私の見た日本        29期生 K.S

 中国にいた時、中国の記者たちの訪日印象の文章をいろいろ読んだが、ほんとうに大きな都会やにぎやかな商店街や車が混んでいる道路など、あるいは、美しい景色の観光地を書いたものだった。しかし、私たちは日本へ定住したので、毎日会っている人は普通の日本人で、見ているのは彼らの日常生活だ。その中に面白い事があったから、書いてみたら楽しいと思った。

 昨年の夏ある日、商店へ行った時、エスカレーターに乗った。目の前に、紙のゴミを見て、こんなきれいな商店で、勝手に紙を捨てることが本当によくないと思ったが、ある一人の女の人が直接紙のところへ行って、紙を拾ってゴミ箱に入れた。その人は50歳ぐらい、普通の婦人のようだ。自然に紙を拾って、自分の家にいたのと同じ様子だった。
 この間、ある工場に見学した時、工場の社長はこんな話をした。「われわれの所では、誰かが町で捨てた紙を見ると、必ず拾って、ゴミ箱に捨てます。あなたは見たことがありますか。」社長の話の中で、自信と自らの誇りは一杯の様子だった。

 確かに日本では町と道がかなりきれいだと思う。住宅の辺りには沢山の緑がある。特に春は桜の花が咲いていて、自分の家を出ると花のいいにおいがして、青い空を眺めると「今日はいい天気ですね。」というあいさつが自然な気持ちを伝えられるだろう。
 また、車が走る時には本当に秩序を守るものだ。どんなに小さな道でも、いつでも夜中になっても車が一台もないのに、交差点で待っている人達は必ず青信号になってから渡るのだ。

 しかし、在日の時間が長くなると残念なことがあった。例えば勝手に痰を吐くこと。バス停でも、住宅団地でも吐く。成人もいるし、若い人もいる。私の家の近くの学校の辺りで、学生たちが捨てている飲み物のビンや食物の袋が時々見られる。これが私の見た日本ということだ。



私の未来        29期生 L.K

 今年2002年、私は22歳になりました。将来の道が長いので、これからどうすればいいのかまだ考えていません。今、日本の情勢はとても厳しいです。私は日本の社会に慣れたければ必ず二つの能力を持てる方がいいと思っています。(以下は私の意見でしかありません。)

1.日本の社会に慣れるために、まず文化のレベルが高ければ高いほどいいです。その前に日本語が話せることです。雑誌や新聞も読めるし、ニュースの意味も分かると日本の社会に早く慣れることができます。私はたくさん本を読むことにしました。数学もちゃんと勉強しなければなりません。自分の状態を自分が心配します。英語は多分忘れてしましました。そんなことは絶対にだめです。私の未来がいいかどうか、自分次第です。

2.将来仕事をしていくばあいはどんな会社でも才能がある人がほしいでしょう。だれでも高い給料と好きな仕事がやりたいです。だけれどもこんな仕事は探しにくいですね。もし私が英語や日本語や中国語が得意なら、良い仕事を探すのは簡単になります。

 以上自分の未来のため、この二つを頑張ってやってみようと思っています。



★20号 2003.7.25発行 (30期生8名 2003.6月修了)

日本ではじまった生活        30期生 L.R

 私は2002年5月14日に飛行機を降りて、成田空港を出た時、初めて日本の美しさや人々の親切を感じました。中国での来たくないという気持ちがなくなったようです。その時、自分の第一の思いは、とにかく、日本での生活が始まって、努力しなければならないということでした。
 それから、センターの聴講生として皆さんと一緒に勉強することになりました。同時に夜間学校に通っています。忙しい生活が始まりました。でも、大変でした。中国で日本語をちっとも勉強しなかったから、勉強は大変難しかったです。でも、先生たちは親切に教えてくださって、日本語や日本の習慣に少しずつ慣れるようになりました。そして、毎月一回の旅行も楽しみました。先生や皆さんと一緒に、日本の各所へ行っていろいろなことをしてみました。鎌倉とか箱根とかディズニーランドとか、一番忘れられないのは江の島へ行って、ボーリングや水族館を楽しんだことです。

 センターで日本語を勉強したことは一番わすれられません。先生たちは難しい日本語をやさしく教えてくださいました。さらに、おいしい食べ物もいっぱいくださいました。だから、私はふとくなったと言われています。 そして、日本の人々から私は大きな影響を受けました。日本の人々はほんとうにやさしいです。私は電車を間違えた時、まわりの人はいつもあたたかくしてくださいました。日本の社会がこんなにあたたかいとは私は思わなかった。だから、日本でやさしくなれるように
努力しようと思います。



★21号 2004.3.20発行 (31期生9名 2004.2月修了)

名瀬の勉強         31期生 K.H

 私は去年の2月に日本に来ました。所沢のセンターで4ヶ月勉強しました。6月から上大岡のセンターで勉強する予定でした。でも、バスに酔って、センターに行けませんでした。名瀬の自治会とセンターの先生と県の先生と相談して、名瀬で日本語の勉強が始まりました。SさんとKさんと三人です。自治会のKさんやHさんもとても親切です。センターの先生も親切です。去年は日産の工場や江ノ島にも行きました。バスに乗りませんから大丈夫でした。

 私は勉強が大好きです。だから、とても感謝しています。みなさん、ありがとうございました。私は、たくさん勉強して、もっと日本語が上手になりたいです。
 7月で修了です。残念です。2月からも勉強がしたいです。これからもよろしくお願いします。



★22号 2005.6.1発行 (32期生2名 2005.5月修了)

体験学習の感想        32期生 H.E

 2004年10月4日から15日(2週間)にわたるTAC都市開発研究所での体験学習が修了しました。この2週間にわたる体験学習では多くのことを学ばせていただきました。今回は主に、CAD製図の実習をさせていただきました。おかげさまでCAD製図について多少理解することができるようになりました。しかし、なんと言っても一番の収穫は、この体験学習を通じて日本の会社やそこで働く人々の仕事の様子を理解することができたことです。私も中国では18年働いていましたが、やはり日本と中国ではいろいろ違うことがあります。今回の体験は今後日本で仕事をするうえで、大いに参考となりました。

 今回の体験学習では、社長さんや奥様には大変お世話になりました。また、社員全員の方々が親切で忍耐強く教えてくださいました。
特にH.Wさん(中国人研修生)のアドバイスや支えには、とても感謝しています。社員の皆様方は、言葉がうまく通じずコミュニケーションもままならない私をとても信頼してくださり、私にできそうな作業を私にさせてくださいました。こうした体験からもいろいろ学ぶことができました。ありがとうございました。



地域交流会        交流会実行委員会

 名瀬住宅の集会所をお借りして帰国者を対象とする日本語学習が始まって二年目を迎えました。自治会長はじめ役員の皆さまの温かなご協力のおかげで、名瀬住宅に住んでいる中国帰国者は、平穏に暮らしてはおりますが、更に住民の方々とのふれあいを深めたいと交流会を持つことにしました。

 11月21日の交流会に向けて、チラシ作り、帰国者が「俄か先生」になるミニ中国語会話教室の練習など、準備を進めました。 当日は、会長さんはじめ役員の方々、それに他の団地の役員の方々もご出席くださり、みんなで歌を歌ったり、中国語の発音に四苦八苦したり、会長さんのマジックショーに歓声を上げたり、楽しく過ごしました。
 団地側の出席者は役員の方がほとんどで、一般の住民の方の出席が少なかったことが残念でした。次回にはご出席いただけるようPR方法や、会の内容を考えるべきと反省しました。
 プログラムに住民の方と帰国者のミニ懇談会も予定していましたが、これは時間的にも、話し合いを進めることができず、出席者の方のご感想をお聞きするにとどまりました。非常に重いテーマでもあり、このような会は今後、住民の方に帰国者のことを知っていただくために懇親会だけを目的に開ければと思います。

 戦争が終わって60年たちました。若い人たちで「残留孤児」という人々の存在を知らない人も増えているようです。戦争のために、想像を絶する過酷な、そして数奇な運命をたどらざるを得なかった人達のことは、原爆や空襲の恐ろしさと同じくずっと語り継いでいかねばならないと思います。すべての人達の理解が得られたとき、帰国者にとって日本は本当の母国、帰ってきてよかったと思える母国になるでしょう。



★23号 2006.9.12発行 (33期生3名 2006.7月修了)

私の趣味        33期生 F.K

 私の趣味は、音楽を聴くことです。中国ではいつも仕事がおわってから部屋でテープを聞いていました。私は小さいころから音楽が好きでした。私の家族はみんな音楽が好きで、家にはいつも音楽が流れていました。
 日本に来てから中国の新しいテープを聞いていません。日本の歌もよく聞くようになりました。それで、私は今とても日本の歌のCDが欲しいです。日本の歌のCDを買いたいと思っています。



夏の思い出        33期生 L.N

 いよいよ真夏になりました。とても暑いです。その暑さの中でいろいろなことを思い出します。
私の中学校の時、大体20何年まえの事です。その時の生活は今よりちょっと辛かった。でもなかなか覚えてなかった。覚えているのは楽しい夏休みだった。その頃の風景は今も頭の中に時々浮かびます。
 夏休みの時はもちろん両親は毎日仕事をしていました。私と弟は家で留守番しました。私は一日小説を読むばかりですが、弟は昼飯をちゃんと面倒を見ていました。どんな料理か今ぜんぜん覚えいないですが、初めてトマト餃子作りました。母に褒められた。
弟はいつも隣の子供たちと外で遊んでいました。私はほとんど家で古典小説を読んでいました。非常に難しいかったです。よく分かりませんでした。でもまじめに読みました。私は弟に「本の虫」と言われました。

 その頃中国人の生活は大変でした。野菜や肉や卵などは自由に買えませんでした。毎日午後、私と弟の重要な仕事は買い物です。年齢の大体同じぐらいの子供たちは、全部同じ店に集まりました。山の様な野菜の周りに、並んで順番を待っていました。ひとつの山は、ひとつの種類の野菜でした。例えば、「トマトの山」に私が並んで、「きゅうりの山」に弟が並びました。
私たち姉弟二人だけなので、とても忙しかったです。ひとつの「山」がおわったら、別の「山」に行きました。アー疲れました。でも、一番楽しかった仕事は、毎日少しお金があまると、私と弟はアイスキャンデーを買て食べました。その味今も忘れられない、おいしかったです。

 私は娘に時々そのことを話します。でも信じてくれないです。彼女たちは幸せな生活で育っています。でも満足しません。とてもぜいたくだと思います。
中学校の夏休みは、今思い出すととてもなつかしいです。その時読んだ小説はまだ覚えています。でも目が悪くなって遠眼になってしまいました。その時の生活には戻れません。私のいい思い出だけになています。



★24号 2007.4.20発行 (34期生11名 2007.2月修了)

 34期生 T.K

 わたしたちきょうだいはちゅうごくにすんでいたとき、あっちこっち、はなれてこうつうもふべんで、みんなおあいすることができないのでとつできさびしかったです。いまわたしたちきょうだいみな、にほんにかえってきてちかいとこで、でんわもあるし、こうつうもべんりでいつもいっしょにセンターであって、はなしたり、にほんごをべんきょうしますので、とってもたのしかったです。
 
 せんじつあねがとつぜんびょうきで、しゅじんがいないので、でんわでわたしをよんでいったのですが、はたしはにほごがへたですので、あににでんわでしらせた。あにがすぐきて、きゅうきゅうしゃをよんで、きて、わたしはあねをびょういんにおくりました。いまあねのびょきがよくなりました。
 わたしたちきょうだい、みんななかよしで、おたがいにてつだったり、たすけたりするのがほんとにしあわせです。



★25号 2008.4.18発行 (35期生7名 2008.2月修了)

日本の生活        35期生 L.E

 日本での1年の生活があっという間に過ぎ去りました。この1年の生活は頭の中でよく振り返りました。初めに来た時、何もわからなかったです。中国で日本語を勉強しましたが簡単な日常挨拶しか使えませんでした。所沢センターと自立センターで日本語といろいろな生活のことについて勉強しました。日本語の勉強は私にとって、とても難しかったです。文法と助詞の使い方、本の内容の理解と読み方など上手になれません。ときどき勉強したくないと感じましたが、もっといい生活のためにあきらめないで頑張りました。みんなの日本語と日本語中級読解の本を勉強しました。大体覚えました。相手の話を聞いてわかるように話せるようになりました。

 日本でセンターから何回も旅行に行きました。箱根や、江ノ島や、鎌倉や、東京ディズニーランドなどに行きました。どの旅も忘れません。一番印象的なのは東京ディズニーランドの旅です。本当に幸せだと思います。

 今月の29日は卒業式です。これから、環境も言葉も違う日本での仕事が始まります。日本語はまだ十分にできないので、最初難しいかもしれませんが、自信をもって、新しい生活に向かって、頑張ろうと思っています。



★26号 2009.4.18発行 (36期生4名 2009.2月修了)

36期生        S.M

 12月22日月曜日6人で東京のクリスマスのイルミネーションめぐりをしました。10時に川崎駅で待ち合わせて10時20分に出発しました。
まず東京タワーに行って展望台に上がりました。展望台は150mの所にあります。そこで写真をたくさん撮りました。東京タワーは室内なので大丈夫ですが、ビルの屋上など外では高い所がこわいです。それから高輪プリンスホテルで昼ご飯を食べました。バイキングでした。自由に好きな物が食べられます。私はぶたと牛肉とパンを食べました。とてもおいしかったです。昼ご飯のあと六本木に行って有名なデパートを見ました。日本人は買い物をしていましたが私は何も買いませんでした。

夜7時半、お台場でイルミネーショングルーズに乗りました。イルミネーションや橋がとてもきれいでした。写真も撮りました。東京は街中電気でクリスマスの雰囲気がありました。9時に川崎に着きました。9時半に家に帰りました。楽しかったのでまた行きたいと思いました。